東宝映画のゴジラシリーズの「怪獣映画のエッセンス」を、ギャレス・エドワーズ監督が甦らせた快作である。黙示録としてのオリジナル『ゴジラ』(54年)に回帰しつつも、新たなゴジラ像にも敢然と挑戦しているのがすばらしい。
原発事故、大地震、大津波と「ディザスター映画」としての側面があるが、これら3・11の東日本大震災以後、タブーとされてきた社会的事象に切り込んでいるのがいい。『ゴジラ』というただの怪獣映画の娯楽性に逃げ込まずに、3・11以後ある現実的な問題に正面からぶつかっている。
人間は自然をコントロールしていると傲慢にも考えているが、それは逆である。圧倒的な大自然の前にはなす術のない人間の無力さと、その大自然から生れた巨大な脅威であるゴジラを思う存分描いている。西洋文明では人間や自然を創ったのは「神」であるとされているが、そういう意味で本作が西洋の文化圏で創られたのは、画期的なことかもしれない。ゴジラこそ善悪を超えた「怒れる破壊神(GOD)」であるからだ。
すばらしいのは、ゴジラ登場の際のギャレス・エドワーズ監督がとった「じらし」作戦だ。彼は、スティーヴン・スピルバーグ監督のパニック映画『ジョーズ』(75年)を参考にしたというが、ゴジラの全貌を簡単には見せずに、ゴジラの大きな特色である3列の巨大な背びれなどを太平洋に浮かべて強調し(まるでジョーズの背びれだ!)、少しずつ〝小出し〟にしている。ギャレス・エドワーズ監督は「どうやれば、人が怖がるのか?」という「恐怖映画のメソッド」を完全に熟知しているといるといわざるをえない。
ゴジラの造形は見た目ちょっと太っている感じだが、見上げるような圧倒的な巨大感、とてつもない重量感があって、息を飲むしかない。
『ロード・オブ・ザ・リング』(01年)のゴラム、『キング・コング』(05年)のキング・コングを演じた、モーションキャプチャーの第一人者、英国人俳優アンディ・サーキスが演じている。キングコングとゴジラを演じたのは、ゴジラの初代スーツアクターの中島春雄に次いで2人目だ。
前のハリウッド版『GODZILLA』(98年)のゴジラが単なる大トカゲで、世界中のゴジラファンから「GODが抜けたジラ」と揶揄された失敗は繰り返すまいと、このゴジラの造形スタッフは、日本のゴジラを相当研究したと見える。モーションキャプチャーでCG処理されたゴジラは、ゴジラファンにはうれしいことに、ちょっと太めなダブダブのぬいぐるみ(着ぐるみ)を着ているように見えるのだ。
映画の序盤の、主人公のひとり、渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士の「レット・ゼム・ファイト(Let them fight)」というセリフは、ストーリーの大きな柱である怪獣対決のその後を暗示していて、なかなかいい。
敵の怪獣ムートーがなかなか強く、好敵手なりえていて、その怪獣対決は手に汗握ってスリル満点だ。このムートーの電磁波攻撃はおもしろい設定である。火のない非文明的世界に戻されてしまうのだ。人間社会が真っ暗な旧石器時代に引き戻されてしまい、人類の無力さが浮き彫りにされてしまう。
ムートーは、まるでコウモリのように、「エロケーション」と呼ばれる音波を発して、つがいの異性を探して同種族で会話しているのだ。ここには、子孫を残すという生殖本能のみが存在する。昆虫のような細い足を持ったムートーは、芹沢博士が所属する「モナーク」と呼ばれる古生物の研究機関の研究所を破壊し、羽を伸ばして飛び去る。この姿がラドンのような空飛ぶ怪獣で、見るからに心躍る。
映画の冒頭、フィリピンの炭坑で発見された巨大な化石はゴジラの祖先であり、ムートーはそれに寄生していた生物だった。「モナーク」はそれを研究する研究機関でもある。原子炉を体内に抱えたゴジラと、放射能物質をエネルギーとするムートーは持ちつ持たれつの関係にあり、ゴジラとムートーの対決は避けられず、この対決はいわば宿命づけられているのだ。
ゴジラシリーズの第1作『ゴジラ』(54年)は、「反原水爆」というテーマから始まった企画であった。そこに、本多猪四郎監督の個人的な戦争体験(兵役に3度、8年間も軍に入隊していた)が加味され、平和への祈りへとつながっていく。戦争からわずか9年しか経っておらず、人々はつらかった戦争の記憶がまざまざと刷り込まれていた。ゴジラが襲う東京の街は、B-29による東京大空襲の爆撃跡地を明らかになぞっていた。そして、大八車で逃げ惑う人々が描かれていた。第二次世界大戦とは、初めて一般市民を巻き込んだ戦争だったのだ。
この核を食い物にしている怪獣ムートーを登場させているだけで、「反核」というゴジラシリーズに通底する真摯なテーマが浮かび上がってくる。おまけに、セリザワ博士はだいぶ若すぎるが、45年8月6日午前8時15分17秒でピッタリ止まった父の形見の懐中時計(それは。ヒロシマで原爆リトルボーイが投下された時間だった)が画面に登場し、あらためて「反原爆」のテーマが表明される。英米の作品でヒロシマの非を認めるとは、実にめずらしいことだ。
そうして日本から消えたムートーは、中盤でとうとうハワイに上陸する。原潜を襲い、核弾頭を飲み込んだムートーはホノルル市街を壊滅させる。ムートーの例の電磁波攻撃によって、ハワイは真っ暗闇になる。重火器の計器も故障するので、迂闊に攻撃できない。
その直後、巨大な津波がハワイを襲う。迫ってくるのは、巨大生物のとてつもなく大きい背びれだ。まるで巨大な相撲取りが小さな湯舟に入ったようで、この容積がハンパない。そう、それは太平洋を渡ってムートーを追いかけてきた宿敵ゴジラだった。
この両怪獣はクライマックスで、今度はサンフランシスコ湾でおち合って最終決戦をする。それは『キングコング対ゴジラ』(62年)でキングコングとゴジラが富士山麓で必然的に、その決戦地で戦うのと同じようなことだ。ここからのゴジラの戦いは、観ているだけで、もう興奮のるつぼだ。
再び大津波が起こり、ゴジラが遅れて到着する。太平洋を渡ったゴジラは、ゴールデンゲートブリッジごと踏み潰しムートーのいるサンフランシスコ市街に向かう。あふれた水量から、その巨大生物のバカでかいその容積がわかる。恐怖映画のメソッドから、はじめは部分部分が小出しにされていたゴジラが、ついに全貌を現すのだ。
またしてもムートーの電磁波攻撃を前に、人間は無力になる。重火器は無効にされてしまうのだ。小火器のみを携えて、パラシュートによる潜入作戦に用いるような、HALO(高高度降下低高度開傘)ジャンプで、ムートーの巣の近くに降下する。観るだけで、鳥肌が立つ。爆弾処理班の主人公フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、ムートーの巣をガソリンで焼き払う。人類ができることは、これくらいしかない。
その怪獣対決は肉弾戦となり、やや劣勢だったゴジラが盛り返す。ゴジラはムートーが巣の爆発音にひるんだ隙に、口をこじ開け、至近距離からガーーーッと喉の奥に青白い放射熱線を浴びせるのだ(熱線の放射には。ものすごく体力を費やすようだ)。
怪獣映画の痛快さのすべてが詰まったこの瞬間、ぼくは思わず大歓声だ!
60年の長きにわたるゴジラシリーズのリブート作品としては、骨の髄まで、日本のゴジラシリーズへの目配せがあっていい。
脚本家にはマックス・ボレンスタインとデヴィッド・キャラハムがクレジットされているが、クレジット無しながら、成功請負人の『ショーシャンクの空に』(94年)『グリーンマイル』(99年)『ミスト』(07年)のフランク・ダラボン、『バットマン ビギンズ』(05年)『ダークナイト』(08年)『マン・オブ・スティール』(13年)のデヴィッド・S・ゴイヤーが脚本家として加わり、脚本は強力になった。中でもゴイヤーは、レジェンダリー・フィルムのヒットメイカーである。
そこで描かれる人間ドラマは、父(『ブレイキング・バッド』のブライアン・クランストン)、海兵隊の息子フォード(『キック・アス』のアーロン・テイラー=ジョンソン)、孫のサム(カーソン・ボルド)という3代の男たちの物語を軸に描かれており、シンプルな構成だ。それに、看護師であるフォードの妻エル(エリザベス・オルセン)が加わって、この一家の話のみが中心に描かれるわけだ。
特筆したいのは、怪獣ムートーの謎に迫るクランストン(日本語に大苦戦したそうだが)の必死さだ。物語上、意外に早く〝退場〟してしまうのであっけにとられるが、彼の猛烈なエモーションには泣かされてしまった。
この映画でもっともすばらしいのは、効果音を含むサウンドデザインだ。ゴジラシリーズ第1作『ゴジラ』から伊福部昭がやった効果音(咆哮や足音)や音楽を抜いてしまうと、味気ないものになってしまうように、本作は咆哮(雄叫び)ひとつで、観る者を圧倒するのだ。
しかし聴くだけで背筋がゾッとする、地鳴りのような咆哮だ。まさにゴジラにふさわしい、ものすごく大きくて、畏怖の念を抱かせる雄叫びだ。まさしく怪獣王ゴジラがそこにいる。日本のゴジラシリーズのレガシーを汲んで作られているだけあって、ただただぼくらの胸を焦がす。この咆哮の音だけで、入場料の元が取れる。
最後のほうで海に向かっていくゴジラが放つ勝利の咆哮にヤラレてしまった。それは、ぼくらの怪獣魂に火をつける、何とも雄々しい叫び声だった。
再三書いてきたように、ゴジラは天敵であるムートーにのみ敵意を燃やしており、逆に人間には一切興味を示しれいない。ここがおもしろいのだ。
このラストの30分は、ゴジラ対ムートーと怪獣対決もあり、黙示録的な世界の終わりを圧倒的なスケールで描いている。このラストを観るだけで、この映画が傑作であると断言できる。
映画『GODZILLA』は、何から何まで、日本のゴジラシリーズのエッセンスに満ちていて、痛快無比な傑作である。
それをより楽しむためには、ゴジラのものすごいデカさを満喫する必要がある。だから、なるべく音の設備のいい映画館(最高のサウンド!)で、見下ろして観るのではなく、前のほうで少し「見上げる」ことが肝要。ゴジラとは畏怖すべき存在であり、見上げることで畏怖の念も芽生えるからだ。
最後に、これだけの大作を魅せられると、もう日本でゴジラを作るのは難しいのではないかと思う。しかも、物語の舞台は、太平洋を渡ってしまった。ギャレス・エドワーズ監督は、日本円で8千万円で作った『モンスターズ/地球外生命体』(10年)から、一気に200倍の160億円で『GODZILLA』(14年)を、一切無駄遣いせずに撮り上げてしまった人物。いわばゴジラで、アメリカンドリームを体現した成功者なわけで、ここまで予算が高騰すると、これを超える怪獣映画は、日本では間違いなく作られない。