シネフィルアジア新連載:劇作家・山崎哲のシネマノート第三回 北野武「ソナチネ」(1993)
2014年12月1日
この映画には私の愛するたけしのすべてが描かれている
山崎哲
北野武の中で一番好きな作品。
ちなみに2番目は前作の
「あの夏いちばん静かな海」。
この30年の
日本映画の中でも最高の傑作だと思っている。
いまだによく覚えてるけど、
封切り当時お客さんが入っていなくてさあ。
観たひとは「わからん」「難解だ」なんて言うし。
え? どこが難解なの?
って私はただひとり呆然としてたぜえ。
だってたけしのやることなすこと、
もう逐一隅々までわかって私はずっと笑い泣きしてたんだもん。
最後は例によって、
おい、もういいよ、笑かすなよ、泣かすなよ、
やめないとほんと怒るぞって感じでさ。
なんだろ?
みんな、難しく考えすぎてるんじゃないかなあ。
これ、一言でいうとさ、
死にたいから死んじゃったという話じゃん。
村川、最初のほうで車の中で言うじゃない。
「ヤクザ止めたくなったなあ」って。
沖縄へ行って、海辺の廃屋に隠れてるときも言うよね。
「なんで遊んでばかりいるんですか」と片桐に聞かれて、
「暇なんだもん。なにもすることがないんだもん」って。
そう言って、ジャンケンしてロシアンルーレットの遊びをする。
つまり、もうなにもすることがないから死にたい?
で、最後、
自分を裏切った組長の手打ち式場を襲撃して、
殺されたみんなの仇を討って、そのあとこうやって自殺をする。
それだけの話だと思うんだけど(笑)。
それともあれなのかなあ。
役者がなんでみんなあんなに棒立ちして、
まるで棒読みするみたいに喋るのかわからなくて、
すごい意味があるんじゃないかって戸惑ってしまうのかな?
あれはそんなに深い意味ないよ。
日本の俳優、役をもらったりセリフをもらったりすると、
みんなどうでもいいお芝居を始めちゃうから、
うそばっかり始めちゃうから、
そうさせないようにしてるだけなんだよね、たけしが。
おまえら、そこにただ突っ立っとけ。
セリフを喋ろうとするな。
だだ突っ立ったままそこでボソボソとセリフを読めって(笑)。
下手に気分入れられたり、動かれたりすると、
自分の撮りたい絵(映像)が撮れないからさ。
たけしはどんな絵を撮りたかったのか?
心の動かない人間、死んだ人間から見た風景。
そう。
半分すでに死んでいる村川=北野武から見た現実、
風景を撮ろうとしてるんだよね。
全編に漂う静謐さ、緊張感はそこから来ているの。
あ、たけしは別に
緊張感を撮ろうとしてるわけじゃないんだけどね。
動くな、突っ立っとけ、なんて言われるもんだからさ、
役者が勝手に緊張して、
ほいで画面に緊張感が漂ってしまっちゃてるわけさね。
ま、私の舞台と同じだで(笑)。
なんで村川=たけしは死にたいのか? 死んでるのか?
そうだなあ。死にたいから死にたい?
そう言うしかないよ(笑)。
例によって私の独断と偏見で言うと、
結局、おかあさんとうまく行かなかったからじゃないかと思う。
たけし、おかあさんが亡くなった時、
「オレを産んで良かったと思って欲しい」って泣き崩れたじゃない。
あの時は私もちょっとびっくりしたんだけどね。
あれは裏返すと、
おかあさんはたけしを産んでよかったと思っていなかった、
ということだよね。
少なくともたけしは、
おかあさんはおれを産んでよかったとは思っていないんじゃないか、
と思っていたということ?
おかさんは教育熱心で、たけしをすごく厳しく育てた。
明治大学に入ったのもおかあさんの薦めだったと言われてるけど、
たけしは在学中はあんまり学校にも行かず、
最後は結局中退し浅草の芸人の世界に入ったわけでしょう。
おかあさんに反発してというか。
おかあさんはそれが許せなかった?
そういう母と子の関係が
やはり相当なシコリになっているんだと思う。
たけしにしてみれば、
子供時分からおかあさんに
自分の存在を肯定してもらったことがなかったというか。
で、まあ、太宰治ほどじゃないかも知れないけど、
無意識に自分で自分を肯定できない心が埋め込まれてしまった、
というのかな?
これ、幸(国舞亜矢)が村川の帰りを待っているラストシーン。
あの丘の向こうで村川は結局自殺するんだけど、
この幸って女、女じゃなくて、「おかあさん」だよね。
おかあさんがこうやって家の前でわが子の帰りを待っている、
そういうイメージで撮っているんだと思う、たけし。
実際のおかあさんに
そういうことをしてもらったことがなかったから?
そう思うのは、途中、上のようなシーンがあるから。
幸と釣りに行くと雨が降り出して、二人して濡れながら戻ってくる。
その途中、幸が村川の腕を掴んで木の下で雨宿りをする。
村川が幸を見つめてると、幸が脱ぎはじめる。
と、村川、こう言って笑うの。
「平気でおっぱい出しちゃうんだもんな。凄いよな」
ほんとイヤになるくらい健康的なヌードシーンなんだけど(笑)、
幸が平気でおっぱいを出すのは、
村川が子供で、幸が村川のおかあさんだからだと思うのよ。
おかあさんとその子供なんだから、
ヌードになってもなんの厭らしさもない?
みごとに猥褻感ゼロ(笑)。
ラストシーンの話に戻るね。
村川は手打ち式場を襲撃して皆殺しにしたあと、
こうやって海辺の廃屋に…、隠れ家に戻って来る。
でもわざわざ戻ってきたにもかかわらず、その手前で自殺をしてしまう。
なんでよと思うよね。
せっかく戻ってきたのに、なんで手前で…、ここで死ぬのよ。
目の前の坂を下れば「幸」だって待ってるのにって。
結局、村川には隠れ家が自分の家になっていないからだよね。
戻れる家にはなっていない。
村川には戻れる家がないって言うの?
すこし言いかえると、あの廃屋に帰っても「幸」はいない、
「幸」は待っていない…、と思ってしまう?
いや、幸が言ったようにおれを待っているかもしれない。
でももし待っていなかったら?
村川はそれが恐いんだよね。
「幸」が必ず待っていてくれるという自信を持てない。
で、その自信を持てないのは、
自分のおかあさんが家で自分=たけしを待っていてくれた
記憶がないから。
で、やっぱり死のう、死にたい…、と思っちゃったんだよね。
私にはどうしてもそうとしか見えない。
そう見えて私はこの結末が
もうどうしようもなく哀しくなっちゃうっていうのかなあ。
もとをただせば廃屋に帰っても、
もう自分の仲間は誰もいないからではあるのだけど、
そういうふうに考えると、
たけしがなぜこの女の名前をわざわざ「幸」とつけたのか、
よくわかる気がしない?(笑)
素直なのよ、たけし、子供みたいに。
「幸」がほしいのよ、「幸」に飢えているのよ、人並みに(笑)。
その素直さに私はまた泣けたりしちゃうんだけどさ。
もうすこし言ってみるね。
学校から帰ってきて、外で近所の友だちと遊ぶ。
夕方になると玄関先から
おかあさんに「ごはんだよ」と声をかけられるので家に戻る。
そういう…、あるいはそれに類した記憶が
みんな少なからずあると思うけど、
たけしにはどうもそれがなかったんじゃないかと思うのよ。
夕方になってもおかあさんが呼んでくれない。
それで家の見える路地の角にじっと立ち続けているしかない。
立ち尽くして、ただ永遠に遊びつづけるしかない。
それがたけしの芸。お笑い。遊び。
そういうふうに見えない、たけしの芸って?
家に帰れない子が…、帰る家のない子が
おとなになってもそのままずっと遊び続けているような。
この映画でも村川とその仲間、ほんとよく遊んでるよね。
ほとんどずっと遊びっぱなし。
それも子供のころ誰もがやったような遊び。
たけしがいつもテレビ番組でやってるような遊び。
沖縄の民謡を歌い、踊って遊ぶ。
このとき、三人とも紙人形(笑)。
紙人形になって歌い、踊り、遊ぶ。
これは紙人形相撲。
御大自らハサミでボール紙を切って人形を作ってる(笑)。
このあと、うんと小さい紙力士を土俵に上げて言うんだよな。
「舞の海」って(笑)。で、すぐ倒れちゃう(笑)。
こういう遊びをやってるたけしを見て、
私はまた笑って泣いちゃうんだけどね(笑)。
こんどは砂浜に海草で土俵を描いて、
良二とケンが紙人形力士と化す。
で、村川、幸、上地(渡辺哲)の三人が砂地をドンドンと叩くと、
良二とケンの二人が紙人形のように動く(笑) 。
ここ、最高におかしいよねえ。
これは村川の片腕の片桐(大杉漣)。
真面目で大人なやつなので、
上の遊びに入れてもらえなかったのね。
仲間外れ。
で、それが悔しくて、みんながいなくなったあと、
ひとりでこうやって紙人形力士遊びをやってるの(笑)。
どこが大人なやつなんだあ、
ただのガキんチョじゃないかあ(笑)。
砂浜に穴を掘って、良二とケンを騙して落とす遊び。
夜の花火遊び。しかも銃撃戦(笑)。
で、しまいには村川(たけし)、本物の銃をぶっ放して花火だあ
なんてやりはじめるの(笑)
そうなると、村川の中ではひとを殺すことさえ遊び。
ショバ代をけちる男をこうやって吊るして、
海に沈めて遊んでしまう。殺してしまう。
村川のやることは遊び。全部、遊び。
そうなるとさ、かれが言ったように、
暇だから…、なにもすることがないから遊んでる、
ということじゃないよね。
村川には…、
ほかのヤクザ連中も多かれ少なかれそうなんだけど、
遊びの時間しかないからだと思うのよ。
「子供の遊びの時間」しか。
家に帰れなくて、帰れる家がなくて、
生まれたときからずっとただ外で遊んでいるしかない子供。
そのままおとなになってしまった、村川。
おとなになってもその時間の中にいるしかない、村川。
たけし…。
この映画の中の遊びは、そのことを表現してるんだと思う。
で、最初のほうで村川が
「ヤクザをやめたくなった」というのは、
じつはその「子供の遊びの時間」をやめたくなった。
その時間をそろそろ止めたくなった、ということだと思うのよ。
その時間を止めたって、
かれは子供の遊びの時間しか知らないわけだから、
結局、それは死にたくなったということになる。
子供のころのたけしは、
実際はたぶん反対だったと思うけどさ。
勉強ばかりさせられて少しも遊ぶ時間を与えられない子供?
子供のころの、その遊ぶ時間を取り戻したくて
たけしは浅草の芸人になったんだと思うんだけど、
いま私が書いてきたようなかたちで…、
実人生を転倒したかたちで、おかあさんとの関係や、
自分という人間のありようを表現しようとしたんだと思う。
実際、たけしもそれに近いこと言ってるんだよね。
この映画を撮るとき、
「これが最後だろうから好きに撮りたい」みたいなこと。
これが最後なので、
最後くらい「自分」を撮ろうかみたいなこと?
「最後だから」っていうのは、どう考えても
「もう死にたい」ってことのような気がするけどさ(笑)。
まあ、実際、この1年後、オートバイ事故を起こす。
あれ、私は、自殺未遂だと思ってるんだけどね。
事のついで言っておくと、
こういうタケシの遊び=お笑いと、
タモリのお笑いはまったく異質だよね。
相容れないほど違っている?
タモリのお笑い芸もわらってしまうけど、
でも、たけしのお笑いのように、
笑って、そして哀しくなって泣いてしまうことはない。
そんなことはありえない。
ましてタモリのお笑いが現実を侵食してしまうことも、
遊びでひとを殺したり、
ひとを殺すことが遊びになったりするなんてこともありえない。
現実と遊びの間にはちゃんと一線が引かれている。
そう意味でいうと、
たけしの遊びにはいつも自分の命がかかっている。
命がけで遊んでいる。
それを直感するから観るものは私みたいに、
笑いながらも哀しくなってしまうのだ?
とにかく、まあ、めちゃくちゃいい映画だよ。
難しい映画でもなんでもないよ。
なので、ごらんなってない方がいたら、
私の大好きなこの映画ぜひごらんくださいな。
お願いしますだ。
■93分 日本 ドラマ/任侠・ヤクザ
監督: 北野武
製作: 奥山和由
プロデューサー: 森昌行 鍋島壽 夫吉田多喜男
脚本: 北野武
撮影: 柳島克己
編集: 北野武
音楽監督: 久石譲
出演
ビートたけし 村川
国舞亜矢 幸
渡辺哲 上地
勝村政信 良二
寺島進 ケン
大杉漣 片桐
北村晃一 助っ人
十三豊 助っ人
深沢猛 助っ人
森下能幸 助っ人
永井洋一 助っ人
安藤裕 助っ人
北嶋組幹部・村川は、組長から沖縄の友好団体・中松組が敵対する阿南組と抗争しているので助けてほしいとの命令を受けた。村川の存在が疎ましい幹部の高橋の差し金だったが、結局村川は弟分の片桐やケンらを連れて沖縄へ行く。沖縄では中松組幹部の上地や弟分の良二たちが出迎えてくれるが村川らが来たことでかえって相手を刺激してしまい、抗争はますます激化。ある者は殺され、ある者は逃げ出す。生き残った村川、片桐、ケン、上地、良二の五人は海の近くの廃家に身を隠した。ある夜、村川は砂浜で女を強姦した男を撃ち殺した。それを見て脅えもしない若い女・幸はいつのまにか村川と一緒にいるようになる。東京に連絡を入れても高橋がつかまらず、イラつく片桐をよそ目に、海辺でロシアンルーレットや花火や釣りに興じる村川。だが殺し屋などによってケンも片桐も上地も殺されてしまう。やがて沖縄にやって来た高橋を村川は捕まえ、阿南組と組むために村川たちを破門にし、中松組を解散させようと企んでいることを聞き出して彼を殺す。そして手打ち式の会場に襲撃をかけるが、生き残り、幸の持つ廃家へ向かう途中、村川は鈍口をこめかみに当て自ら命を絶つのだった。
公開当初、それ以前の北野映画と同様に非常に難解な映画と受け取られ、興行収入は不振を極め、1週間で上映が打ち切られる映画館が出るほどだった。
しかし1994年にロンドン映画祭やカンヌ国際映画祭で上映され、欧州を中心に高く評価された。これを契機に、現在でも「キタニスト」として知られる北野映画ファンが世界的に誕生した。前世紀末にはイギリスのBBCによって「21世紀に残したい映画100本」にも選ばれた。ちなみにノーベル文学賞受賞者の大江健三郎は、『たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京)出演時に、この作品が好きだと答えている。